1次スクリーニングががん治療を根本的に変える
──『N-NOSE』は画期的ながん検診法といわれますが、これまでのがん検診に何か問題があるのでしょうか。
がんで多くの人が亡くなり、早期発見の必要性が強く訴求されています。国を挙げていわゆる「5大がん検診」の受診を推奨しているにもかかわらず、受診率はトータルで3割程度にとどまったまま。その最大の理由は、何より面倒だからです。
5大がん検診とはその名の通り、胃がん、肺がん、大腸がん、乳がん、子宮頸がんと5種類のがん検診をわずかな自己負担で受けられる制度です。ただし、男性なら対象となる3つのがんについて3回、女性の場合は5回も検診を受けなければなりません。それもできれば毎年ですから、とても手間がかかる。これでは受診率は高まらないでしょう。こうした状況を改善し、一人でも多くの人にがん検診を受けてもらうには、人々の行動様式を変える必要があると考えたのです。
出典「がん対策に関する世論調査」の概要(平成29年1月)内閣府政府広報室
https://survey.gov-online.go.jp/h28/h28-gantaisaku/zh/z06.html
──行動様式を変えるとは?
5大がん検診は安価だけれど面倒なうえに、これだけではほかのがんを見落とすリスクもあります。1回の受診で全身チェックできるのはPET-CT検査ですが、費用が10万円以上かかるうえに、健康リスクのある放射線物質を体内に注入する必要があります。一方で腫瘍マーカーなら5000円ぐらいで受けられますが、早期がんに対する精度は10%程度であまり当てになりません。
がんは早期発見さえできれば、かなりの確率で治せるようになっているのです。では、どうすれば早期発見できるのか。がん検診に1次スクリーニングを取り入れればよいのです。つまりがんの種類は問わず、ともかく「がんであるか/ないか」だけをチェックする。その代わり費用を可能な限り抑えて、誰でも気軽に検査できるようにする。こうした検査法を実現できれば、がんへの対処法が大きく変わるはずです。
──仮にステージ0の段階で発見できれば、手術も抗がん剤も不要になるかもしれませんね。
ステージ0、つまりがん組織が極めて微小な段階で「がん」だとわかれば、改めて精密検査を受ければよいのです。仮にステージ0の胃がんや大腸がんなら、内視鏡だけで簡単に切除できる可能性があります。あるいは免疫を活性化する薬の投与だけで完治できる可能性も出てきます。いずれにしても体に負担がかかることなく、治療費も安価に抑えられます。ステージが進んでからだと、大掛かりな手術や副作用のきつい抗がん剤治療となりますが、初期段階なら治療も容易なのです。だから1次スクリーニングを受けてほしい。そのためにはコストを抑えて、しかも高精度に検査できる方法が求められる。そこで生物の力の活用を思いついたのです。
※『N-NOSE』は、下記の15種類のがんを1度の検査で検知する。
胃、大腸、肺、乳、膵臓、肝臓、前立腺、子宮、食道、胆嚢、胆管、腎、膀胱、卵巣、口腔・咽頭
1次スクリーニングから医師による診断までのがん検診のステップ
https://hbio.jp/srv/nnose2
知られざる線虫の驚くべき嗅覚
──生物の力、つまり線虫のセンシング能力ですね。
線虫の嗅覚を活用します。嗅覚は五感の中では最も古くから発達した感覚であり、未だに全容が解明されていない感覚でもあります。ただし生物の匂いセンシング能力は極めて高く、人工の匂いセンサーなどではまったく歯が立たないハイレベルであることだけは確かです。鼻が利くといえば犬を思い浮かべる方も多いと思いますが、実際に「がん探知犬」は既に存在しています。ただし、犬を使うと手間がかかるため、結局割高になるし、何より大量検査をこなせません。これに対して線虫なら飼育コストはほとんどかかりません。
──体長1ミリほどしかない線虫の嗅覚が、それほど優れているのですか。
広津 人間の嗅覚受容体は350から400種といわれていますが、線虫には1200種以上あります。犬でがんを嗅ぎ分けられるのなら、線虫でできないはずがありません。私は長年、線虫の嗅覚メカニズムを研究してきました。その匂いに対する嗜好性を解明した論文が、2000年に『ネイチャー』に採択され、かなり反響を呼んだのです。線虫の嗅覚解析実験に関しては、おそらく世界一数多くこなしてきた自信があります。だから、線虫をがん検診に使えるかどうかの判断を、自分ならできると自負していました。とはいえ、もともとは研究費を集めるために考えたいくつかのテーマの一つに過ぎなかったのですが。
線虫によるがん探知を実現した逆転の発想
──研究成果はすぐに出たのでしょうか。
線虫をがん検診に使えるかどうかの判断は、実験を始めれば2週間ぐらいで出ると思っていました。そこで2013年に共同研究に取り組む医師から、がん患者さんの血液と尿を検体としてもらい研究を始めたのです。まず考えたのは、血液と尿のどちらが検体として適切なのか。尿には体内の排泄物がいろいろ含まれているので、普通に考えれば不純物の少ない血液の方がわかりやすいとなります。
──けれども、実際には尿だったのですね。
血液で検査したところ、どうにもはっきりした結果が出ませんでした。仕方がないからとりあえず尿を使った場合も調べてみるか、ぐらいの軽い気持ちで始めました。ところが、尿でも原液では反応しない。そこで尿を「薄く」してみたらどうかと思いついたのです。
──濃くしたほうが、反応は強まるように思えますが……。
そこで活きたのが、過去の研究体験です。以前、線虫の匂いに対する感応性を調べた経験があり、匂いの濃度が変わると好みが変わるのはわかっていました。この反応は人間でも同じで、いくら香水の匂いが心地よいからといって、原液を嗅がされると匂いがきつすぎて不快になったりします。線虫も同じで、彼らが好きな匂いの濃度を濃くしていき一定の閾値を超えると、その匂いを嫌がる事実を発見し論文を書いていたのです。だから、ひょっとしたらと思い、尿を薄めていくとそれが当たりました。あとはどれぐらい薄めると、最も反応が良くなるかを探っていったのです。もっとも生物の行動解析は、かなり難易度の高い生物実験なので、そう簡単にはこなせませんが、先ほどお話ししたように私は回数だけは人の何倍もこなしていたので自信があったのです。そして研究を重ねた結果、ステージ0の段階でチェックできるレベルまで精度を高められました。
──そこで実験結果をまとめて特許を申請したのですね。
2013年の年末には特許を申請し、論文もまとめました。この論文が学術誌に掲載されたのが2015年3月です。これを機にマスコミなどから取材を受けるようになり、企業などからの共同研究の申し出も相次ぐようになったのです。ただ、私は研究の成果を何とかして世の中に役立てたいと、それだけを考えていました。
ステージ0やステージ1の早期がんも検知する『N-NOSE』
https://hbio.jp/srv/nnose3
検査数の絶対数を増やすため機械化に挑む
──線虫を使ったがん検診、その技術は確立された。すると次の課題は何だったのでしょうか。
がんの早期発見が、誰にとってもごく当たり前の出来事になれば、がん治療にパラダイムシフトを起こせます。ただし、そのためには検診の受診率を高めるのが前提です。つまり簡単に検査でき、費用も安くしなければなりません。企業との共同研究から事業化を考えるとなると、どうしても収益性が優先されてしまいます。そうではなく私は自分の発見を、一人でも多くの人が手軽に受けられるがん検診として普及させたいと考えたのです。そこでHIROTSUバイオサイエンスを立ち上げました。
──費用を抑えるなら健康保険を使えるといいわけですね。
それが、結構微妙な問題なのです。仮に現状で『N-NOSE』を自費で受ければ1万円程度だとしましょう。これが保険収載となれば3割負担ですから、一人あたり3000円で受けられます。その場合、国や企業の負担は7000円です。ところが『N-NOSE』は1次スクリーニングだから、一人でも多くの人に受けてほしい。仮に対象者が6000万人だとすれば、毎年相当の国家予算が必要となってしまいます。もちろんがん治療費の削減などトータルコストで考えれば、十分に採算は合うはずですが、認められるまでに時間がかかるでしょう。それなら企業努力により、自費でも5000円ぐらいで受けられるようにすれば、その方が早く普及すると思います。これを年に1回受けていれば、少なくとも「がんではない」と安心できるのなら負担感は大きくないでしょうし、仮に引っかかったとしても早期治療に持っていけます。
──感度、特異度はどれぐらいでしたか。
感度が現時点で86.3%、つまりがんの患者さん100人を対象として『N-NOSE』で検査を行えば、そのうち約86人に対して陽性だと診断をしてくれます。一方の特異度は90%、つまりがんでない人100人を対象に検査を行えば、そのうち90人をきちんと陰性と判断してくれます。健康診断のオプション等で手軽に受けられる腫瘍マーカーの感度は25%ぐらいですから『N-NOSE』の感度の高さをわかってもらえるでしょう。『N-NOSE』は感度はもちろん特異度も高いので、がんの可能性がある人をふるいわけする1次スクリーニング検査に最適だということです。仮に陽性と出た場合は、精密検査に進んでもらえばよいのです。感度、特異度については、いずれもより鋭く反応する線虫をつくる研究も進めています。
──コストを下げる手段といえば一般的には量産ですが、線虫という生物を使うと難しいのではないでしょうか。
線虫の培養は至って簡単であり、線虫を使った検査結果についてもデータの自動解析ができるようになっています。ただ一点、検査プロセスの中で解消する必要があったのが、培養した線虫を取り出して洗って検査用のシャーレに入れる作業です。この作業は人がやっていたのですが、それでは数をこなせません。そこで機械化に挑戦しました。手作業の微妙な力加減などを再現するのが非常に難しい課題でしたが、何とかクリアできて機械の量産化段階にまでこぎつけています。その結果、来年は年間50万人ぐらいの方に検査を受けてもらえそうです。
世界から求められるがん検診『N-NOSE』
──がんを早期発見できれば、世界中のがん患者を救える可能性がありますね。
低コストで受けられるメリットは、アメリカのように日本ほど保険制度が整備されていない国ほど大きくなります。もちろん、これまでのデータがすべて日本人を対象としたものなので、人種による違いを検証する必要がありますが、それも基礎研究の段階を終えています。その結果、欧米人を対象としても日本人と同じ感度、特異度であると明らかになったので、アメリカに話を持っていきました。するとその関心ぶりはかなり高く、直ちに現地法人をつくったのです。残念ながら、コロナ禍に巻き込まれて一時ストップしていますが、落ち着けば直ちに本格稼働する予定です。
──高齢化に伴いがんの発症率が高まるのだから、欧米はもとより中国やインドなどでもニーズがありそうです。
そのとおりで、これからがんが社会問題化する国はいくつも出てくるでしょう。そこで安価な検査で早期発見できれば、少々大げさかもしれませんが、がん治療のパラダイムシフトが起こると考えています。
──『N-NOSE』そのもののレベルアップは、どのように考えているのでしょう。
これから研究に取り組むのは、小児がんの検査とがん種の特定です。現時点では、子どもが受けられるがん検査はありません。けれども採尿だけで検査できるようになれば、小児がんも早期治療が可能であり、子どもをがんから救えます。『N-NOSE』の1次スクリーニングががんの可能性があると出た場合に、現状では次は精密検査となりますが、これも尿検査だけで、どのがんなのかを特定したい。がん種により匂いが異なるといわれているので、特定のがん種の匂いだけに反応する線虫をつくればよいのです。これも既に研究は進んでいて、2年後ぐらいには提供できるようになる予定です。
研究成果に自信があるなら、その価値を世の中に問うべき
──ここまで研究を進めるには、医師の先生方との連携も重要だったのではないでしょうか。
言うまでもない話で、実際に大学病院をはじめとして各地の病院の先生方のご協力がなければ、ここまでたどり着けなかったでしょう。そうした連携を進めるうえでは、私自身が研究者であり論文発表も重ねていた実績が役に立っています。
──医学部の先生方からすれば、広津さんが博士号を持っているのが信頼の証になるわけでね。
少なくとも最初のハードルをかなり低くでき、共同研究へとスムーズに進んでいけました。おかげで我々はベンチャーであるにもかかわらず医学部の先生方との共同研究がたくさんあります。さらに新たに立ち上げた日本生物診断研究会では、東京大学病院・病院長の瀬戸先生を代表理事にお迎えしています。
──日本生物診断研究会は『N-NOSE』をはじめとする生物診断研究を進めるための組織ですか。
いずれは学会にまで格上げしたい。それほど生物診断には可能性があると考えています。そのためにも、まずは『N-NOSE』を世の中に広めなければなりません。だからベンチャー起業に踏み切り、経営者も務めているのです。ベンチャーでは研究者と経営者は分けるべきだとの考え方もありますが、少なくとも当社に関しては私が一元的に見ている方がうまくいくようです。
──その理由は、経営をうまく回すのではなく『N-NOSE』を一人でも多くの人に提供したい一念と、そのための戦略展開にフォーカスしているからではないでしょうか。
研究者としては『N-NOSE』の感度・特異度を高めて、より多くのがんを見極められるようにするのが課題であり、経営者としては『N-NOSE』を世の中に広めるのが課題です。研究者として多くの人の役に立つ成果をあげたのなら、それを広く世間に訴えるべきです。そうすれば成果を普及させるための支援は得られるものです。科研費を獲得するのも重要ですが、より多くの人に役立つ研究であれば、世間に打って出る気概もあとに続く研究者には求めたい。私のように医療、つまり人の健康に関わる研究であれば、フィールドを日本に限る必要などまったくありません。実際に私もオーストラリアの大学と共同研究を進め、その成果を持ってアメリカに現地法人を立ち上げたのです。若い人たちには、まず世の中を変えるようなインパクトのある研究に取り組んでほしい。そして結果を出せたなら自分だけで満足するのではなく、その成果を一人でも多く知ってもらう活動にも、ぜひ力を入れてください。
代表取締役 広津 崇亮(ひろつ たかあき)
1995年東京大学理学部生物学科卒業。2001年東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻博士課程修了。博士(理学)。日本学術振興会特別研究員(東京大学遺伝子実験施設)、京都大学大学院生命科学研究科ポスドク研究員、九州大学大学院理学研究院生物科学部門助教。2016 年HIROTSU バイオサイエンス創業、代表取締役就任。著書は『がん検診は、線虫のしごと』
株式会社HIROTSUバイオサイエンス https://hbio.jp/
N-NOSE https://hbio.jp/
(本記事は「リケラボ」掲載分を編集し転載したものです。オリジナル記事はこちら)
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