最速で確実にネイティブへ通じる英語が身につく名著『理系のための「実戦英語力」習得法』のプロローグを特別全文掲載する。理系なら必読、読みごたえ充分の特別企画!
理系英語=「歴史に遺る研究」を世界にアピールする道具
私は「英語の専門家」ではなく、半導体や結晶の物理を専門とする“理系の人間”として、アメリカで10年半生活した「英語の使用者」である。
この10年半のうちの3年半はアメリカ企業の研究所で研究員・研究マネージャーとして、7年は州立大学の教授として研究と教育に従事した。
この間、日本人同士の会話は別として、すべて英語を使って生活し、仕事をしてきたわけである。
ところで、一口に「英語」といっても「さまざまな国の英語」があるが、私が使ってきたのは、いわゆるアメリカ英語(American English)である。
話し言葉の場合、発音において「さまざまな国の英語」によっては顕著な差が現れるものの、少なくとも本書が扱う理系英語の書き言葉(文章語)においては、たとえばイギリス英語(BritishEnglish)とアメリカ英語の間で使用する単語や表現に多少の違いが見られることはあっても、大きな違いがあるわけではない。とはいえ、本書で述べる「英語」が「アメリカ英語(米語)」の意味であることを初めにお断りしておく。
余談ではあるが、2017年のノーベル文学賞を受賞した日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏のインタビューの美しいイギリス英語を拝聴して、アメリカで長年接し、私自身が使ってきたアメリカ英語との違いを、日本人としてあらためて実感したのは事実である。
俗ないい方をすれば、「イシグロさんの英語は品があって、カッコイイなあ」と思ったのである。
もちろん、一口に「イギリス英語」「アメリカ英語」といっても、「日本語」がそうであるように、使い手によって千差万別ではあるが、一般的教養人が話す英語に限っていえば、私が「アメリカ英語よりイギリス英語のほうがずっと美しいなあ」と思う気持ちは否定できないし、私自身、イギリス英語に憧れているのも事実である。
しかし、こと理系英語の文章語においては、両者に気にするほどの違いはないので安心していただきたい。
さて、いうまでもないことであるが、日本からの「客人」としてではなく、アメリカでアメリカ社会の一員として生活する者にとって、英語はまさに必要最低限の「道具」である。
渡米時、永住のつもりであった私にとってはなおさらであった。
永住権はもっていたもののアメリカ国籍をもたない私は、アメリカでは「外国人」ではあったが、英語は私にとって第二言語であっても外国語であることは許されなかった。
また、自分の仕事の場や活躍の場をアメリカに限らず“世界”に求めるならば、国際言語である英語を使わざるを得ない。
私が渡米したのは35歳のときであったが、永住のつもりで渡米することになったのも、渡米してすぐに「客人」ではなくアメリカ企業の一員となり、研究者・研究マネージャーとして通用したのも、(自慢するわけではないが)事実としてその時点で、私の「英語力」が必要最低限のレベルは超えていたからである。
しかし、アメリカでの社会生活、仕事のための必須の「道具」として英語を使わなけ
ればならない以上、私は「その機能を高めよう」「いかにしてnative Englishに近づけるか」といろいろ考え、努力もした。
私が永住のつもりで渡米することになったのも、アメリカでの研究生活が実現したのも、私が研究論文をすべて英語で書いていたことに端を発する。
日本人の“謙譲の美徳”を考えればいいにくいことではあるが、正直に書かせていただければ、もし、私が英語で論文を書いていなかったら、そしてその論文が英語的にも内容的にも「国際的 level」に達していなかったら、私の「アメリカでの生活」はなかったし、「現在の私」もなかったのである。
私には、アメリカを含む外国留学の経験はなく、渡米以前の英語力は日本で身につけたものである。私は本書で、日本人の私が、日本にいて、どのようにして、アメリカで生活・仕事をするうえでの必要最低限のレベルの英語力を身につけたのか、そして、その英語をアメリカ生活の中でどのように磨いていったのか、さらには、ノースカロライナ州立大学教授時代、中国からの留学生や日本からの客員研究員の英語力をいかに鍛えたのかを述べ、実戦的な英語力を身につけたいと考えている読者の参考にしていただきたいと思う。
“occasionally”の意味、わかりますか?
大学卒業後、私の本当の研究者らしい研究生活は1974年、日本電気中央研究所に入所したときから始まった。
当初は誘電体などの酸化物結晶の研究についたが、1976年に発足した国家プロジェクト(超LSI技術研究組合)に翌1977年に配属されてから1983年まで、半導体結晶(主としてシリコン)の研究に従事した。
この間、半導体シリコン結晶などに関する13編の研究論文(前述のようにすべて英語)を書いたが、それらのうちのいくつかが「国際舞台」で評価された。そして、これらの論文のおかげで、1983年に永住のつもりでアメリカに渡ることになるのだが、その伏線は1977年の夏、私にとっては初めての国際会議(結晶成長国際会議)が行われたマサチューセッツ工科大学(MIT)に向かう途中、当時、半導体研究の“殿堂”ともいうべき、憧れのBell研究所(Summit, NewJersey)を訪問したことにあった。
私は、論文を読んで憧れていたJ. R. Patel博士に直々に研究所を案内されたことに加え、玄関にあったGraham Bell の胸像の台座に刻まれた、
Leave the beaten track occasionally
and dive into the woods.
You will be certain to find something
that you have never seen before.
という言葉(下図)に感動したのである。
これは、本書の読者であれば誰にでも簡単に意味がわかる英文と思われるが、じつは意味深長である。“occasionally”と“will be certain”に注意して全体を読んでいただきたい。
一般に、“occasionally”は「時おり、時々、しばしば」と簡単に訳してしまうことが多いが、この“occasionally”の元の“occasion”の意味をしっかりと考えていただきたい。“occasion”は単なる「時、機会、出来事」ではなく、“time at which a particular event takes place, right time, chance”を意味している。このような“occasion”は誰にでも、いつでも、ひんぱんに訪れるものではない。
そして、“beaten track”は「踏み固められた道、誰もが通る道」である。つまり、上記の最初の文は、「好機が訪れたら、誰もが通る安全な道から外れて、未踏の森の中に飛び込んでみなさい」という意味なのである。
続く文で、Bellは“will find”とはいってくれていない。“will be certain to find”といっているのである。「未踏の森の中に飛び込んだ」からといって、誰にでも“something that you have never seen before(いままでに決して見たことがない何か)”を“will find”できるほど、世の中、研究の道は甘くはない。未踏の道に飛び込めば、ふつうは路頭に迷うか、野垂れ死にするのがオチである。
Bell がいっているのは、“to find(見つけること)”に“will be certain(疑いをもたないかもしれない)”であって、(“be)certain(疑いをもたない)”ではないのである。beaten trackから外れて未踏の森の中に飛び込んで行かない限り、“something that you have never seen before”を見つけることができないのは“certain” である。
私は、このBellの言葉こそ、「研究者」というものの本質をついていると思った。そして将来、occasionがあれば、ぜひアメリカというwoods(未踏の地)で研究生活を送りたい、さらには、いつか自分に研究成果を1冊の本にまとめるようなoccasionが訪れたら、このBellの言葉を掲げたい、と強く思ったのである。
英語なくして、研究の道はひらけない
アメリカ移住のoccasionは意外に早く、Bellの言葉に感動した5年後に訪れた。
私が1979〜1981年に書いた論文が1982年にアメリカ・デトロイト(Detroit)で開催された「第1回超LSI科学・技術国際会議(The First International Symposium on Very Large Scale Integration Science and Technology)」の組織委員の目にとまり、会議初日の招待講演者として招かれたのである。
私の講演題目は“Behavior and role of oxygen in silicon wafers for VLSI”、講演時間は30分だった。この講演の後、私はアメリカ、ドイツの複数の研究機関から勧誘を受けた。結果的に、私は翌1983 年の春、当時、世界最大の半導体結晶の研究所といわれたモンサント・セントルイス研究所に、アメリカに永住するつもりで移籍したのである。
そしてその4年後、こんどはノースカロライナ州立大学に教授として引っ張られ、転職することになる。アメリカの大学教授は日本の大学教授と比べるとはるかにきつい仕事ではあるが、大学に移った初年、私には自由になる時間が多かった。とても幸運なことに、私に半導体シリコン結晶に関する専門書の執筆依頼がAcademic Pressからあったのは、まさにこのときだった。Academic Pressといえば、学術書出版社の中では一流中の一流である。
私はこの幸運に狂喜し、生涯の大作となる書Semiconductor Silicon Crystal Technologyを書き上げた。そして、その10年前、Bell研究所で思った「いつか自分に研究成果を1冊の本にまとめるようなoccasionが訪れたら、このBellの言葉を掲げたい」を実現したのである(下図)。
永住のつもりで渡ったアメリカではあったが、私は結局、いろいろと考えるところがあって(その理由は本書の内容と関係ないので省く)10年半後の1993 年秋に日本に帰って来た。それ以降は半導体研究の第一線から引退し、興味の赴(おもむ)くまま自分自身のpaceでさまざまな分野の“道楽的研究”(しかし、すべては半導体研究を原点としている)を続けている。
帰国後、およそ10年が経ったとき、「エレクトロニクス50年史(“An Electronics Division Retrospective(1952-2002)and Future Opportunities in the Twenty-FirstCentury”)」がまとめられた。
「エレクトロニクス50年史」において、第一に重要な出来事は1948年のトランジスター(transistor)の発明であるが、こんにちの「エレクトロニクス文明」に直結するのは1952年の集積回路(Integrated Circuit: IC)の予言、1959年の出現である。
上記“1952-2002”の、“1952”はその年であり、“2002” はElectrochemical Society(ECS)の創立100周年記念の年だった。
この「エレクトロニクス50年史」のFigure 1を飾ったのは、当然のことながら「エレクトロニクス文明」の嚆矢(こうし)であるトランジスターを発明したショックレイ(Shockley)、バーディーン(Bardeen)、ブラッテン(Brattain)の3人(1956年にノーベル物理学賞受賞)だった。以降、「エレクトロニクス」の発展に貢献した研究者とその業績が次々に紹介されているのであるが、まことに光栄なことに、Figure 25に私を登場させてくれている(下図)。
これは、上記の招待講演の論文“Behavior and role of oxygen in silicon wafers for VLSI” や書籍Semiconductor Silicon Crystal Technologyが評価された結果であった。
どんな分野であれ、その分野の研究史がまとめられる際に、自分の名前が登場するというのはこのうえなく嬉しいことであり、光栄なことである。しかも、それを存命のうちに見られるとは! これも、私が研究論文を英語で書いてきたからである。
私は、若い研究者、また研究の道を志す学生諸君に、心から申し上げたい。
それぞれの分野の研究史に遺るような研究をしていただきたい(拙著『一流の研究者に求められる資質』牧野出版、2014)。そして、そのような研究を世界にappealするためには、どうしても国際言語である英語を使わなければならない。
そのための「英語力」は、勉強・努力次第で必ず身につけることができる。
「学校英語」を「実戦英語」に変える─理系英語をモノにする法
私を含む一般的な日本人の英語学習の過程を考えてみよう。
現在は小学校から英語が教科の一つになっているようだが、私が英語を習い始めたのは中学1年のときである。本書が対象にしている多くの読者(具体的には後述する)も同様であろう。
私は、外国語である英語の教科書を生まれて初めて手にしたとき(もう半世紀以上も昔)の感動をいまでもはっきりと憶えている。その教科書の最初に出ていた英語の文は“I am a boy. You are a girl. This is a pen. That is a book.”だった。
私は10年余りアメリカで生活したが、中学校で最初に習ったこれらの英文を使ったことはもちろん、聞いたことも一度としてなかった。
考えてみれば当然であろう。“I am a boy. You are a girl. This is a pen. That is a book.”のようなことをいう機会が、実際の生活の中であり得るだろうか。私がもし、実際にそのようなことをいったとすれば、私の“知性”は間違いなく疑われるだろう。私自身、もし、まじめな顔をしてそのようなことをいう人に会ったとすれば、間違いなくその人の知性を疑う。
いまにして思えば、なんという笑止千万、奇怪な文章をもって英語を習い始めたことだろう。さすがに、最近の中学校の教科書からは“I am a boy.” や“You are a girl.” のような奇怪な文は消え、自然な“会話”文から英語学習が始められているものと信じるが、アメリカで生活するようになって以降、「学校で習った英語はいったいなんだったんだ!」と腹立たしく思ったことは少なくない。
たとえば、前置詞問題の“定番”の一つに、
「6時10分前です」 It is ten minutes( )six.
( )に入る前置詞はなにか
というのがあった(いまでもあるだろうか?)。ごくごく素直に考えれば、「前」なのだから“before”でよさそうだが、それは×で、正解は“to”だった。
私も、渡米直後は律儀に“to”を使っていたのだが、このような場合に“to”を使うアメリカ人は稀(まれ)だった。接するアメリカ人のほとんどが“before”を使うことに気づいてからは、私も“before”に変えた。
親しいアメリカ人に「日本の学校ではtoが正しく、beforeは誤りと教わったのだが……?」というと、「まあ、文法に厳格なカタブツはtoを使うかもしれないが、フツウのアメリカ人はbeforeを使う」とのことであった。私は「なあ〜んだ、素直にbefore を使えばいいんだ」と安心したものである。
同様に発音についても、「なあ〜んだ」と思ったことが少なくない。
たとえば、学校英語の発音問題の“定番”の一つに、「silent “t”」、すなわち「発音しない“t”」がある。代表例が“often”で、学校で習った正しい発音は[ɒfn]であり[ɒftn]のように“t” を発音したら×だった。
ところが、親しいアメリカ人(私と同じ分野の著名なニューヨーク出身の学者)がいつも[ɒftn]と“t”を発音するので、気になって日本の学校で習ったことをいうと「ニューヨーク出身者の多くは[ɒftn]と発音する」ということだった。聞くところによれば、ポートランド出身者の多くも“t”を発音するらしい。実際に、私のアメリカでの経験からいっても、“often” の“t”を発音するアメリカ人が少なからずいる。
また、試験問題の“定番”に「(a)と(b)が同じ意味になるように( )の中に適当な語句を入れよ」という問題があった。( )に入る語句は、たとえば(have to)と(must)、(will)と(is going to)であったりする。
しかし、日本語では同じ「〜しなければならない」、「〜するつもりである」であっても、英語の微細な差異を考えれば(have to)と(must)、(will)と(is going to)では同じ意味にはならないのである。だから“have to” と“must”、“will” と“is going to” という2つの表現が存在するのだ。
にもかかわらず、「学校英語」ではそれらが「同じ意味」として扱われる。
本来、英語は英語であり、またcommunication(後述するように、本書では「英英辞典」の効用を強調するので、極力“カタカナ日本語”ではなく、元の英単語を使う)の道具としての言語の役割を考えれば、英語に「学校英語」や「実用英語」(本書でいう実戦英語)のような“種類”があるのはヘンである。
しかし、私自身の経験からいっても、私が日本の学校で習った英語(学校英語)とアメリカで実際に使われている英語(実戦英語)とは、必ずしも同じ英語とは思えないのである。
日本人は通常、誰でも中学校から(最近では小学校から)英語を義務教育として学習する。本書の読者の大半は、十数年以上の英語学習経験者であろう。総じて、日本人が「英語」に捧げる時間、労力は相当なものではないか。
しかし、正直にいわせてもらえば、少なくとも「文明国」といわれている国で、日本人ほど英語を使えない国民はいないのではないかと思う。私はいま、“一般的なこと”をいっているのであり、もちろん日本人の中にもnative speaker並みの英語の達人がいることも事実ではあるが、多くの日本人の「実戦英語力」は、彼らが捧げた時間と労力がはなはだ虚しくなるlevel に留まっているのではないだろうか。
ノースカロライナ州立大学時代、私の研究室には日本人の客員研究員のほかに中国人や韓国人、ポーランド人、ペルー人、ウクライナ人など、英語を母国語としない国から来た助手や留学生がいた。また、私の授業を受けに来る学生の中にもそのような留学生は少なくなかった。もちろん、私たちの日常語は国際交流言語である英語である。
彼らの英語力と比較してみると、明らかに日本人の実戦英語力が劣っているといわざるを得ないのである。英語の勉強に6〜10年、あるいはそれ以上の年月をかけた日本人の英語が、ほとんど実践の場で使いものにならないというのは、やはり何かがおかしい。
その“何か”とは何なのか。
一言でいえば、私たちが学校で習ってきた「学校英語」は「受験英語」であり、必ずしも実戦を目指したものではなかったことであると私は思う。
もちろん、私は「学校英語」や「受験英語」を全面的に否定するものではない。私たちはそれらを通じて英語の基礎を学んだし、私がこれから述べようとする「実戦英語」の基盤となるものでもある。
私たち日本人が日本にいて、「学校英語」を脱して「実戦英語」を身につけるのは容易なことではないが、こと“理系英語”に限ってみれば、工夫と努力次第で必ずモノになる。それは私自身の経験と、私がアメリカの大学時代に、日本人を含む英語を母国語としない国からの留学生たちを鍛えた経験から自信をもっていえることである。
本書ではこれから、その工夫と努力の要点を述べる。本書の読者には希望をもって精進していただきたいと思う。
本書の目的─理系のための「読力」と「書力」を徹底的に高める
最初に申し上げたいことがある。
テレビや新聞の広告を眺めていると、「健康」に関わる商品とともに多いのが「英語教材」に関わる商品のような気がする。それらの英語教材の宣伝文句には、「私は英語のための勉強はしない。ただ聞き流すだけ!」「テキストも辞書もいらない」「考える前に英語がでしゃばってくる」「初めは一日5分聞き流す! 聞くだけで英語が口をついてでてくるなんて画期的!」「遊び心で英語が身につく」「いいんですか? こんなに楽して英語をマスターして」などという、夢のような言葉が並んでいる。
このような広告が絶えることなくテレビや新聞に大きく登場することを考えると、これらの商品を求める人が絶えることなく存在しているということに違いない。また、書店の本棚には「20日間で英語ペラペラになる本」「英語速習マニュアル」「早く手軽に英語をマスターするコツ」といった類の本が所狭しと並んでいる。
これらの広告や本が意味する「英語」がどのようなものなのか、私にはわからないが、少なくとも、本書ですでに述べてきたような、またこれから述べるような実戦英語が、テキストも辞書も必要とせず、一日5分聞き流すだけで、楽して早く手軽にマスターできるようなことは、18ヵ国語に通じたという南方熊楠(みなかたくまぐす、1867-1941)のような語学の天才でない限り、絶対にない。もしあるとすれば、それはまさに夢の中の話である(じつは、後述するように、南方熊楠ですら、それなりの努力をしているのだ)。
したがって本書は、 ちまたにあふれているような「夢のような教材」ではないし、本書を読んだだけでは英語が身につかないことも明らかである。まず、英語習得に対する幻想(非現実的なことを、夢でも見ているかのように心に思い浮かべること)を捨てていただきたい。
また本書は、“理系英語”の書き方や表現法、あるいは直接的に役立つphraseなどを伝授することを目的とするような本でもないことを最初にお断りしておく。
英文法の知識が役に立つ、英文法の知識を役立てる!
特に“理系英語”において、「英文を正確に読む」、そして「英文を正確に書く」ために決定的に重要なのが「文法力」である。したがって、本書では、「実戦的英文法」を中心に話を進める。ここで重要なのは、あくまでも「実戦的」な英文法であることである。
“英文法”と聞いて誰の頭にも浮かぶのは、分厚い「英文法書」であり、あの「学校英語」で理屈抜きに丸暗記させられた無味乾燥な“受験用英文法”だろう。そのような文法に対する強烈な「アレルギー」のためか、「文法など不要である」「文法などにこだわっているから英語が上達しないのだ」「ブロークン・イングリッシュでいいじゃないか」というような論調、声をしばしば耳にする。
その「声」の主が、英語の「専門家」あるいは「教育者」だったりすれば、「ああ、よかった」と胸をなでおろす「英語学習者」も少なくないだろう。
しかし、たとえば
Company make computer.
という英文(じつは“英文”になっていない)からは、どのような「会社」が、どのような「コンピューター」を「作る」のか、あるいは「作った」のか、はたまた「作ろうとしている」のか、「作りたい」のかなど、本質的な内容がさっぱりわからない。また、その「コンピューター」が1台なのか2台なのか、1万台なのかもわからない。
つまり、文法を無視して単語を並べただけでは、必要な情報を伝えることがまったくできないのである。
私は強調したい。“理系英語”の使命―主張すべき科学的・技術的内容を、正確に明瞭に伝えること―を考えるならば、英文法は決定的に重要である。
しかし、いまわれわれが念頭に置く“理系英語”において、あの分厚い英文法書に書かれているすべての文法知識が必要なのかといえば、決してそのようなことはない。“理系英語”に必要な最低限の要点だけを身につければ十分なのだ。そしてその際、われわれが中学・高校を通じてみっちりと叩き込まれた英文法の知識が、確かに役立つのである。
そのことを私は、英語を母国語としないさまざまな国の研究者・留学生たちとの交流を通じて、体験的に実感してきた。日本における「学校英語」が、この点においては強みを発揮するのである。
本書は、“理系英語”のための必要最低限の英文法を簡潔にまとめ、実戦的かつ具体的な例文を通して“理系のための英文法”に習熟すること、ひいては、国際的に通じる「英文を正確に読める能力(読力)」と「英文を正確に書ける能力(書力)」を習得することを目的として書かれたものである。
そのための補助として、すべての例文を原則として“理系の英文”にしている。ひたすら“理系の英文”を正確に読み、“理系の英文”を正確に書けるようになることを目指す本書の構成は、第3章で明らかになるように、従来の英文法書のそれとはまったく異なる。
読者にお願いがある。
本書の構成上、一度だけの読破ではなく、必ず二度、三度と読み直していただきたいのである。一度最後まで読みきってから再読することで、本書の内容に対する読者の理解度が指数関数的に深まるからである。
なお、本書では、英単語の意味をしばしば「英英辞典」から引用するが、その「英英辞典」は多くの場合、私が高校時代後期から愛用しているA.S.Hornby:Oxford Advanced Learner’s Dictionary of Current English(以下Hornby)である。