photo by iStock

著者:隠岐 さや香

偏見が人の運命を狂わせる

「男性はこうあるべきだろう」「女性はこういうものだろう」という思い込みは、無意識のうちに私たちを縛っている。このような思い込みを「ジェンダー・ステレオタイプ」と呼ぶ。あるいは単に「ジェンダーによる偏見」と呼ぶ。

日本は恐らく、ジェンダーによる偏見が男女の進路選択に与える影響が強い国である。

一般的に、多くの国で理工系には男性が多く、社会科学(法や経済など)は男女半々、人文系(文学など)には女性が多めになる。日本のあり方はOECD諸国の平均を上回り、理工系は男性、人文系に女性という傾向を強烈に示す。一例を挙げれば、工学部卒業生のうち女性の占める割合は、OECD諸国平均では26%だが、日本は13%だ(2014年の数字)。

それどころか、大学の門も女子学生には遠いらしい。最近の朝日新聞記事によれば「娘は無理して大学に行かせなくても…」という考え方が今でも根強く残っている 。特に、経済的な困難のある地域ほどその傾向が強くなってしまう。

また、私は複数の地方大学に勤務してきたが、「親から地元から出るなと言われて、この大学に来た」という話を聞いたのは、残念ながら一度や二度ではない。

そうはいってもお金を出すのは親だし。経済問題はやはり切実でしょ、と考える人はいるだろう。しかし、高校の先生が偏見を持っている場合は、どう考えればよいのか。

ネットの呟きを見ると、21世紀になっても、女の子は楽な大学にいくのがよいなどと先生に言われる人がいるらしい 。

〔PHOTO〕iStock

メディアで報道の続く大学医学部入試の女子学生差別にも、このジェンダー・ステレオタイプの問題が見え隠れする。

最初に東京医科大学の事例が報じられたとき、すごく驚いた。私は女性の理工系進学問題に関心を持っていたが、さすがに入試制度は疑ったことがなかったからだ。自分が勤める学部では考えられない話だったからでもある。入試合格判定で受験生の性別なんて考えないし、知る機会もない。全員書類の中で数字になっている。日本国内なら、他の大学もそうだと思いこんでいた。

 

しかし、その前提が崩れてしまった。

東京医科大学は、四浪以上の学生や外国人学校出身者、そして女子学生を入試で不利な扱いとしたらしい。

同医大の関係者が説明するには、「女性医師は妊娠や出産のために離職する率が高いから」ということだった。また、「女性医師はきつい仕事をやりたがらないから敬遠されて仕方がない」との見方をする医療関係者も少なくないようだった1

しかし、調べていくほど、その理由付け自体が思い込みなのでは?と疑いたくなってくる。

まず、「肉体的にきつい仕事を女性医師がやりたがらない」という考えには、医療同業者から疑問の声があがっている。確かに、平成28年の厚生労働省調査では、大変とされる外科の女性医師比率は8.4%、整形外科は4.9%である。だが、やはり体力的にきつく勤務が不規則とみなされている小児科や産婦人科では、女性医師の割合が35%近くに達しているのだ2

また、「妊娠・出産のために離職」というと、完全に医者を辞めて家庭にでも入ったような印象を持ってしまうが、実際はそうではないらしい。大分昔、平成18年の調査ですら、産休を取った女性医師の多くが復職している様子がみられる(50代の段階で30代以上の値になる)3

そもそも、女性医師は大学病院にこそ残らないが、早めに独立し、開業医をやっている人が多いという。要するに、社会全体で考えれば、女性医師はきちんと働いている。そのことが無視されすぎてはいないか4

むろん、大学病院をはじめとする過酷な労働環境の実態など、解決の難しい問題もあるのだろう。実際に女性医師が抜けて困っている現場もあったのだろう。

だが、その一方で、複数の学生の未来を変えてしまう重大な措置が、ずいぶんとあやふやな根拠に支えられていたものだ、との印象を抱いてしまう。

(この記事では紙面の都合上扱えないが、四浪生や外国人学校出身者についてもきっと同様のことが言えるだろう)

ジェンダー・ステレオタイプの恐ろしいのは、それが無意識のバイアスとして人の心に巣くっていることだ。それを信じている当人達は大まじめであるし、恐らくは余裕のない労働環境で、それを正義とみなしている。

その結果、多くの人が影響を被ってしまう。

キズナアイ騒動から考える

医学部入試の件以外でも、ジェンダー・ステレオタイプの問題にはまだまだ多くの人びとが無関心なのだな、と感じさせられる事件が少し前に起きた。

発端は、ノーベル賞に関するNHKの特設サイトで公開された番組、「まるわかりノーベル賞」にバーチャル・ユーチューバー、「キズナアイ」が起用されていたことだった。

NHKのサイトより

バーチャル・ユーチューバーとは、3Dのアバターを用いて動画サイトYouTubeで発信するチャンネルを持つ存在のことだ。キズナアイは、少女のイラストで有名な森倉円氏のデザインにより作られた完成度の高いアバターである。若年男性層の人気が先行する形で国内外に多くのファンを作った。

このNHKによるキズナアイ起用に関して論争が起きた。ネットにはよくあることだが、一連の論争は論点が分散してカオスだった。ただ、全体としては、「萌え系の絵は公共的な場面で使われるべきか」という話に回収されてしまった気がする。

しかし、私が一番気になったのはそこじゃなかった。

あきらかに若年女性よりは若年男性の方に強いアピール力を持ちそうなキャラクターが、ノーベル賞の紹介番組に選ばれたという事実にこそ、問題を感じていた。

スマートアンサーによる2018年9月の調査では回答者のうち10代男性の3人に1人、10代女性の5人に1人がキズナアイの動画を見た事があると回答している 。更に遡ると、2018年1月には、バーチャル・ユーチューバー自体が、若年男性層の人気が先行するジャンルであると報じられている5

つまり、バーチャル・ユーチューバーは、まだ「みんなのもの」になりきっていない、一部の層が牽引している若いジャンルである。それを使って科学の最先端を届けることが、どういう意味を持つか。

その「一部の層」、すなわち若年男性が、未来の自然科学研究の主役であるとの印象を社会に発信する結果となってしまってはいないだろうか?

「永遠の生徒」としてのキズナアイ

それに加えて、もう一つ気になることがある。

それは、キズナアイがとても「特殊な生徒」であるということだ。

彼女(実は性別は不明だが、一般には女性にしかみえないだろう)は、「量子」の言葉に「漁師?」と聞き返したりする天然キャラである。何より、彼女自身が科学の被造物であるので、生身の人間のようには成長しない。

番組の内容からは、レクチャーを受けた彼女が何かを吸収し、次世代を作っていくというシナリオが想像しづらいのである。キズナアイは、永遠の聞き役、あるいは科学の応援役を運命づけられた生徒として出演しているようにみえる。

NHKのサイトより

タレントの鈴木福くん(当時13歳)が生徒役で出演する「まるわかりノーベル賞」2017年版の映像と比較すると、この印象は強化される。

番組の中で鈴木くんは、ノーベル物理学賞受賞者、赤崎勇氏による「あなたが本当にやりたいことはなんですか?」の自筆メッセージを見る。そして、「やりたいこと?いっぱいあるかな」と答えるのだ。

彼は成長し、自分で未来を作っていく存在である。科学者になるという選択肢もその中ではまだ、完全には排除されていない。しかし、生徒としてのキズナアイにはそのような可能性を感じづらい。

そもそも、彼女は「スーパーAI」との設定を持つキャラである。この設定を信じるなら、人間は彼女にとって創造主であり、知識を与え続ける教師である。その関係は、人間を中心とする現代文明が続く限り逆転しないだろう。

それでも、講師役の人間に女性研究者がいたなら印象は少し違ったかも知れない。残念ながら、今回キズナアイにレクチャーした三人の研究者は全員男性であった。被造物としての少女と、彼らは対話していた。

そこで彼女はいつまでも若い、永遠の生徒にみえた。

ジェンダー・ステレオタイプと未来への呪い

「女の子はのびない」という考え方がある。

最近は昔ほどいわれなくなったとはいえ、未だに理工系科目と女性に根強くつきまとう偏見だ。

しかも、色々なバージョンがある。40年ほど前だと、女子高生にすらこの言葉がぶつけられたようだ。高校3年生になったら、君の数学の成績は男子より落ちるよ、というのである。

今は女性の研究者も増えたので、「女性には天才が少ない」といういい方に変わっている。

じわじわと「のびない」「成長しない」の範囲が変化しているのである。言い換えれば、この半世紀ほどで女性の理工系に関するレベルは随分上がったということだ。天才云々についても、また話が変わるかも知れない。

内容は多岐に渡るが、このようなステレオタイプは、女の子を「永遠の生徒」とみなす捉え方と表裏一体を成している。冒頭で触れた「すぐやめてしまう女性医師」という偏見ともどこかでつながっているだろう。

不思議なことに、同じように少数派になりやすい文学部の男性には、同じような話を聞かない。就職先が限られる、などの脅しはあるが、「大学4年には小説の読解で女子に追い抜かれるよ」とはいわれない。

根強く残る数学的知性へのバイアス、それは理工系に憧れる女性の未来を縛り、可能性を狭める「呪い」にひとしい。

自信の有無が成績に影響を与える

OECDが2012年に65の国と地域で15歳の少年少女が参加したPISAテストの比較調査からは、十代の少女が集団的に、数学や自然科学に自信を持てないでいる様子が伺える。

東北大学教授で神経科学者の大隅典子氏も紹介しているように6 、自信の問題さえクリアできると、実は男女の差が殆どなくなるとする調査もある。

数学に対する「自信の度合い」はそれぞれの成績と有意な相関関係が見られ、驚くべきことに、理数系科目に同じ程度の自信を持つ男児・女児で比べた場合、両者は同じくらいの成績を取るのである。

女子学生の数学への自信や関心が非常に重要な意味を持つわけだが、では、そうした「自信や関心」が育まれたり、変化したりする条件についてはどうか。様々な研究があるが、その結果が示すのは、人はとても繊細に、環境に影響されるということだ。

たとえば、アメリカの理工系女子学生を対象にした2011年の調査によると、難易度の高い数学科目を男性教師が教えるのと、女性教師が教えるのとでは、関心の持ち具合や成績が変わってくるらしい。女性教師が教える方が「自分にもできそう」と親しみを持ち成績も向上しやすいという。

逆に、教師が男性、生徒が女性というパターンしか経験しない、あるいは理数系科目の授業中に先生が男子生徒しか指名しないなどの経験をした女子学生は、「この科目においてあなたは主役ではない」という印象を持ちやすい。期待されないから、成績も伸びない。進路選択のときには文系にいく。

こうしたジェンダー・ステレオタイプを乗り越えて理工研究者になった女性にも、残念ながら、まだ楽ではない現状が待っている。「優秀な科学研究者は男性である」というバイアスが残っているからだ。アメリカのような国でもそれはまだ存在する。

〔PHOTO〕iStock

それでもこの10年ほどは、現在の科学者コミュニティにみられるこのような偏見を研究によって検証し、対策を取ろうとする動きが活発である。

ある実験では、大学の理工系のラボを対象に、同じ内容の履歴書を女性と男性、それぞれの名前に変えて送りつけてみた。その結果、男性名の履歴書の方が、有意に高い評価を得る傾向があったという 。審査員の性別も、結果には影響があったという。

とすれば、候補者の名前や性別を隠した状態で書類の審査をする、あるいは、業績評価や採用のとき、関係者のジェンダー比率に気をつければよいことになる。

無意識のバイアスに抗して

残念ながら、日本の大学や研究機関では、まだ、無意識バイアスのレベルまでカバーした対策が、一般的になっているとはいえない。

とはいえ、ジェンダーに関する「無意識バイアス」自体の研究は進んでいて、次の段階に入りつつある 。

大学、企業を問わず、責任ある地位に就いた人がジェンダー・ステレオタイプに惑わされず意思決定できるようにするための研修プログラムが、開発されはじめている 。

また、欧米を中心に、「男の子だけが主人公」になりがちな理工系のあり方を変えていこうとする試みもある。ジェンダー分析視点を活かして、女性に関心の高いテーマを自然科学研究に盛り込むことをめざすジェンダード・イノベーション(性差研究に基づく技術革新)は、その一例である(このあたりの問題についてご関心のある方は拙著、『文系と理系はなぜ分かれたか』を是非お読み頂きたい )。

近いうちに日本の状況も大きく変化していくだろう。私たちにも、まだまだやれることがあるはずだ。