人の体内には、3つの生命鎖があります。いずれも生命活動に重要な役割を果たす鎖、高分子物質です。
第1の生命鎖は遺伝情報を伝達する核酸(DNA・RNA)、第2の生命鎖はタンパク質。そして第3の生命鎖・糖鎖が、いま注目を集めています。
その糖鎖を、高純度で大量生産する革新的な技術開発に成功したのが、株式会社糖鎖工学研究所です。同社代表取締役を務める朝井洋明氏に、「リケラボ」編集部が糖鎖の可能性についてうかがいました。
O型なら輸血できる理由も糖鎖にある
──そもそも糖鎖とは、どのような物質なのでしょう。
糖鎖とは文字通り、糖が鎖状につながった高分子物質で、たんぱく質や細胞膜を構成する脂質の表面に結合し、その働きに影響を与えます。
細胞の表面を顕微鏡でみれば、糖鎖がうぶ毛のように出ている様子がわかります。
ヒトの血液型も、実は糖鎖によって決まります。
基本となるのがO型で、これに糖鎖の一種N-アセチルガラクトサミンが結合しているのがA型、ガラクトースが結合しているのがB型です。
O型の血液が、どの血液型にも輸血可能な理由は、基本となる糖鎖しかついていないためで、逆にO型は別の糖鎖がついたO型以外の血液を受け入れることができません。
血液にかかわっていることからもわかるように、糖鎖は生命現象を左右する重要な物質なのです。
糖鎖は病気の原因にも関係
──ほかに糖鎖はどのような働きをしているのですか?
少し大げさにいえば、ありとあらゆる生命現象にかかわっています。
具体的には、細胞分化、老化、免疫応答などの生命現象や、がんの転移、ウイルス感染、炎症などの疾患にも関係していることが少しずつ明らかになってきました。
ただ、その機能の多くはまだ未解明で、糖鎖は無限の可能性を秘めています。
言い換えれば「糖鎖をうまく使うと、疾患を治す薬も作れる」ということです。
その一例が、タミフルやリレンザなどインフルエンザの薬です。インフルエンザウイルスは、細胞の表面にある特定の糖鎖(シアル酸)と結合して、細胞の中に進入します。やがて細胞内で増殖したウイルスが細胞の外へと飛び出して、別の細胞に進入して増殖を繰り返す。その結果、インフルエンザの症状が悪化します。
タミフルやリレンザは、ウイルスが糖鎖との結合から外れて、細胞の外に出ていくのを防ぐ薬です。
──糖鎖を活用した創薬はどのくらい進んでいるのでしょうか。
さまざまな疾患に糖鎖がかかわっているため、画期的な新薬開発の可能性は、広く知られています。
ところが、とても残念なことに糖鎖を活用した薬は、今のところほとんどありません。
なぜなら糖鎖の構造があまりにも多様で複雑なために、極めて扱いにくいからです。その結果、高純度の糖鎖は、通常は大量生産できないのです。
──糖鎖を人工的に作ることはできない?
タンパク質は今の遺伝子工学を使えば、ほぼ100%思い通りに製造できます。
ところが、糖鎖については、200種類の酵素をはじめとしていろいろな物質がかかわってくるため、試験管内でシンプルに作ることができません。
こうした状況を踏まえて、2007年のNature誌に『The same but deifferent』と題した記事が掲載されました。
記事が取り上げているのはバイオ医薬品のジェネリックについてです。バイオ医薬品を構成するタンパク質は人工的に合成できても、薬効を出すために付ける糖鎖を思い通りの位置に付加するのは極めて難しいのです。
だから、バイオ医薬品のジェネリックは、先発品と完全に同一の構造のものを作ることはできません。
「似ているけれど、本質的には違う」というのが、記事の意味であり、そのためバイオ薬品のジェネリックは、厳密には「バイオシミラー」と呼ばれています。
糖鎖の大量生産に世界で唯一成功
──とはいえ、御社では、糖鎖を人工的に作っているのですよね。
その通りです。我々は、糖鎖工学を用いて高純度の糖鎖を大量生産する革新的な技術開発に成功しました。
思い通りの糖鎖を作ることができるため、バイオ医薬品の創薬に貢献できます。
糖鎖を大量に作るといっても、その量はせいぜいキログラム単位です。なぜなら、糖鎖はごくわずかな量で効力を発揮するからです。
糖鎖を活用した医薬品の数少ない成功例として、Amgen社が開発した腎臓透析用「アラネスプ」があります。ヒトの糖タンパク質であるエリスロポエチンのアミノ酸配列の一部を改変し、活性に重要な役割を果たす糖鎖を付加した遺伝子組み換え糖タンパク質製剤です。
この薬は、1回あたり15~60μg(0.000015~0.00006g)を静脈投与します。だから年間生産量がわずかに170gであるにもかかわらず、売上は4500億円にもなるのです。
──糖鎖は、とてつもなく高額なのですか。
実験用に市販されている試薬で1mg(=0.001g)が5000ドルぐらいですので、1gならざっと5億円を超えます。これでは研究に使うのも難しい。
ところが我々は年間10kgぐらいを作れる体制を整えました。価格は公表できませんが、従来と比べれば驚くほど安価です。
糖鎖工学研究所ではこうした純度99%以上の糖鎖ライブラリーを用意しています。そして糖鎖をタンパク質のどこにでも組み込める技術も開発済みです。
これは生物学的な方法ではなく、純然たる有機合成つまり低分子薬を作るのと同じ方法論に基づいた手法です。
いよいよ創薬へ、臨床研究も
──創薬への利用が期待されますね。
ようやくそのレベルにまでたどり着きました。
平成26年度から、株式会社日本触媒と糖鎖修飾ソマトスタチンアナログに関する共同研究と共同臨床開発を進めています。これはヒトの生体内にあるソマトスタチン(成長ホルモンの分泌抑制作用を持つホルモン)にヒト型糖鎖を付加させた、新しいソマトスタチン誘導体です。
これにより腫瘍から分泌される過剰なホルモンの働きを抑え、ホルモンによる異常な症状を改善し、腫瘍を小さくする効果が期待されています。
我々が持つ自由に、しかも安価に使える糖鎖の存在が、少しずつ知られるようになってきました。共同研究が進みヒトでの安全性が確認されれば、一気に事業が拡大すると期待しています。
──創薬に活用できれば、事業が急成長する?
生理活性ペプチドは、すでに数多く見つかっていますが、未だに実用化されていません。
その理由は、半減期が短いために体内ですぐに分解されることと、水に溶けにくいためです。水に溶けないと注射薬として利用できません。
ここに糖鎖を付加すると、ペプチドの活性を長く保つと同時に、ペプチドを水溶性に変えられるのです。しかも、設計図通りの糖鎖を作れるため試行錯誤する必要がなく、新薬の開発期間を大幅に短縮できます。
──今後の見通しについて、どのようにお考えなのでしょうか。
日本触媒社のほかにも数社と受託研究が進んでいます。なかには特定のがんを対象に独自に研究を進めている素材もあります。臨床研究まで進んでいる素材もあり、いずれ開発へと進んでいくはずです。
新薬が上市されれば、材料を手がける我々の売上が一気に増えます。受託研究が増えれば、毎年1~2件程度が開発まで進むはずで、中長期的には売上が右肩上がりとなると見込んでいます。
何しろ糖鎖を製造し、タンパク質に自由に付加する技術を持っているのは、今のところ我々だけですから。
研究者から創業者へ
──そもそも朝井社長は、どのようにして起業されたのでしょうか。
前職の大塚化学で研究開発や営業を担当した後、2009年に社内に設立された糖鎖工学研究所の所長となりました。2012年に研究所が分社化された際に社長となり、2013年にマネジメント・バイアウト(自社買収)により独立しました。
糖鎖と知り合ったキッカケは、社内で新規事業の立ち上げを命じられ、いろいろとネタを探したからです。
──それはいつぐらいのことですか。
2002年です。新規事業のネタをいくつか提案し、その中に糖鎖も含まれていました。経営陣で検討された結果、糖鎖にゴーサインが出たので、全国にいる糖鎖研究者のリストを作り、その中から3人にメールを送ったのです。
すると10分後に、当時、横浜市立大学におられた梶原康宏先生(現・大阪大学大学院理学研究科・有機生物化学研究室教授)から電話がかかってきました。用件は「今すぐに会いたい」とのことでした。
その日は出張だったので、翌日出張の帰りに先生の研究室に行くと、机に資料が山積みになって、「これで、ぜひ特許を取りたい。だから協力してほしい」と言われたのです。
資料を読んで可能性に気づいた私は、その場で上司に電話をかけ、特許申請をやりますと伝えました。上司の許可はもとより、返事さえも聞かずに、こちらの要件だけを伝えて電話を切りました。
その結果が、今につながっています。
──ずいぶん思いきった決断ですね。
かなり自由にやらせてくれる会社だったので、許してもらえると思っていました。
もともと研究職で入ったにもかかわらず異動により営業職に配属されていた時代には、仕事を終えると知り合いの大学教授の実験室で研究を続けていました。そこで勝手に開発したサンプルをクライアントに提供したことがあります。
ところが、そのサンプルを気に入ったクライアントから、本社に注文書がFAXで届いて大騒ぎになりました。本社では手掛けたこともないサンプルの正式発注が届いたのだから、それはびっくりしますよね。
そんなことをやるのはどうせ朝井だろうと上司から怒られましたが、結果的にはそのサンプルは製品化されています。
経験原理主義が導いた成功
──それほど研究が好きだった?
実は一度、研究を諦めたことがあります。大学院の修士2年のとき、指導教官にどうしても許せないことがあり、大学院をやめると研究室の主任教授に訴えました。
すると話を聞いた教授から「指導教官を変えたら、お前は半年間、がんばれるか」と尋ねられたのです。それまで1年以上かけて積み上げてきた研究を捨てて、新しいテーマで半年で成果を出す。それは無理だと応えると「いや、やらせてみせる。そのかわり死ぬ気で結果を出せ」と言われました。
それからの半年間は、研究室で暮らしました。おかげで何とか論文をまとめることができたのです。
ただ、研究に没頭していると、何も辛いことはありませんでした。研究は、私にとって天職だったのでしょう。
入社試験の際にも、何をしたいかとたずねられて「一生、試験管を振っていたい」と答えたほどですから。
──そんな朝井さんにとって、研究者とはどのような存在なのでしょうか。
研究者は職人だと思っています。だから、自分の好奇心やスキルが、所属する会社の利益とマッチすれば、これほど幸せな人生はないはずです。
ただ、経験原理主義者の私としては、どこかのタイミングで営業職あるいは顧客と接する経験を持つよう強く勧めます。
会社の利益に貢献するためには、顧客から評価されなければなりません。そのためには、顧客の思考を肌感覚で掴んでおくことが重要です。
そして若い間に、たくさん失敗することです。人は失敗から学び、失敗したときこそがヒューマンネットワークを築くチャンスです。本当に困ったとき、最後に助けてくれるのは、失敗を重ねるうちに築いたネットワークだと思っています。
──最後に読者へのアドバイスをお願いします。
可能ならば、ぜひ学位を取っておきましょう。日本ではあまり重視されませんが、欧米では学位がパスポート代わりになり、持っていると確実に自分の世界を広げてくれます。「ミスター」と「ドクター」では、相手の見る目がまったく変わります。
研究者として仕事をしながらでも、学位取得は可能です。ぜひ、視野を広げて研究人生を楽しんでください。
鹿児島大学大学院理学研究科修了後、大塚化学株式会社に入社。8年間の研究所勤務の後に営業職を担当。その後、新規事業開発に携わり、2009年社内に設立された糖鎖工学研究所所長に就任。12年の分社化に伴い社長に就任。2013年、経営陣によるマネジメント・バイアウトにより独立
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