今回は凸版印刷株式会社の総合研究所にお邪魔し、抗がん剤開発に活用できる生体モデル開発に挑むお二人にお話を伺います。凸版印刷は2019年6月に公益財団法人がん研究会(以下がん研)と、抗がん剤開発支援のための共同ラボを開設しました。
印刷会社ががんに関する共同研究?と思われるかもしれませんが、印刷テクノロジーを核にした凸版印刷の事業展開はとても多彩。「健康・ライフサイエンス」分野は、会社として重点的に取り組むべき成長領域と位置付けられています。
今回の共同研究は凸版印刷が大阪大学と共同で開発した3D細胞培養技術を抗がん剤開発に役立てることが目的になります。チームリーダーの北野史朗さん、研究員の名田イサナさんにこの研究についてお話を伺いました。
凸版印刷株式会社 総合研究所
抗がん剤開発を加速する、3D細胞培養技術
北野:凸版印刷では2000年代初頭から医療・ライフサイエンス分野に力を入れており、遺伝子変異検出技術を使った、製品や遺伝子解析システムを関連会社の理研ジェネシスに導入し、一部は既に実用化されています。
日頃から外部の医療、研究機関や大学の先生との共同研究を進める中で、がんの研究や治療法のトレンドについて専門家と意見を交わす機会は多く、がん治療薬として主流となりつつある分子標的薬の開発成功率の低さや、遺伝子変異による抗がん剤の効果予測の限界など、さまざまな課題を知ることになりました。
北野そこで、この開発がひと段落した後、新たな医療・ライフサイエンス分野のテーマとして是非取り組みたいと考えたのが、「3D細胞培養技術の構築とその用途開発」です。
3D細胞培養技術は、創薬、再生医療、培養食料など様々な用途が考えられますが、最初の事業機会として、本技術を用いた創薬支援、及び関連したソリューション提供を想定し、現在研究を進めています。がん研との共同研究は、その創薬支援研究の一部になります。
――3D細胞培養技術は、2015年から凸版印刷が大阪大学と共同研究を開始し、核となる培養技術に関して特許を取得しています。
北野:創薬工程における従来の薬剤テストの手法は、がん細胞を二次元で培養(2D細胞培養)し、そこに薬剤を暴露して効果を予測していました。2D細胞培養は、スループット(処理能力)が高いですが、細胞が接している培養皿はプラスチックでヒトの体からはかけ離れた環境です。本来、生体内では細胞の隣に細胞が秩序良く、制御されて存在し、機能を発揮しています。
また、創薬工程は大きく非臨床試験と臨床試験(治験)に大きく分けられ、非臨床試験ではマウスなどの動物試験が実施されますが、治験で医薬品候補が脱落する原因の一つとして、マウスなど動物とヒトとの種差による結果の乖離が挙げられています。最近では抗がん剤の評価としてPDX(患者組織移植マウス)を用いた評価も導入され始めていますが、動物実験はスループットが極端に低く、絞られた候補でしか試験できません。
一方、3D細胞培養は、スループットが高いので創薬研究のもっと前の段階の、生き物であるPDXでは不可能なポジション(評価化合物が多い創薬過程の上流部分)を取れると考えています。図に示すような2D細胞培養とマウスのギャップを埋める技術シーズとして、3D細胞培養技術に期待しています。
北野:我々が大阪大学と開発した3D細胞培養技術を用いたヒト腫瘍モデルは、間質組織と共培養することにより、腫瘍細胞に特徴的な形態や環境を再現できます。がんの転移や成長に重要な役割を果たす毛細血管やリンパ管の構造を作り、より生体の腫瘍組織に近い構造を模倣し、機能をもたせることができ始めています。
3D細胞培養技術は世界中で研究されているホットな領域ですが、独自のバイオ材料を用いて血管網のネットワークが発達した間質組織を作製し、微小環境を制御した状態で薬剤評価ができるのは、今のところ我々が開発した技術だけです。
そういった技術特徴に、がん研の先生から着目頂き、共同研究を開始し、今回、さらに研究を推進するために、共同ラボの設立に至りました。
3D細胞培養技術により作製した人工組織の容器での培養の様子と標本切片。
(画像下左)青色で囲まれた空間は血管の内腔を、茶色が付いているものががん細胞を示している。
(画像下右)左に見える濃い紫色は細胞核を示す。
北野:人工組織の作り方は、生体親和性の高い独自の材料と血管内皮細胞や線維芽細胞などさまざまな細胞を混合し、組織を形成するといったものです。その培養過程で、血管内皮細胞は自己組織化され、患者のがん細胞同士が集まり、生体に近い状態で腫瘍環境が再構築されます。
今年のノーベル生理学・医学賞のHIF-1、この遺伝子は、生体内の組織が低酸素状態にさらされているときに発現しますが、がんの周辺の環境では通常よりも低酸素状態になることが知られています。我々の培養技術でこのような低酸素状態を作り出すことも可能です。これらの環境を再現することは、細胞を成り行きで塊にするような従来の技術では困難です。
要素技術は細胞の表面をその独自材料でコーティングし、細胞を積層する点になります。他の積層技術として、細胞のコーティングには、遠心分離機を回しながら20回近くナノ薄膜をつけていく方法がありますが、それでは時間もかかり、細胞も傷みます。
我々の開発した手法では1回の遠心でコーティングが済み、簡便に短時間で三次元の組織が構築できます。人工組織の作製を短時間で実現できること、簡便にできることは、工業化の為に重要なポイントだと考えています。
――最新のがん研究では、がん細胞は間質細胞とインタラクションがある状態で見なければならないとされています。そのため、この技術のように血管まで自己組織化する人工組織上にがん細胞をまくことで、生体に近い状態で薬剤の効き目を確かめることができると期待されています。
北野:共同ラボで研究予定のテーマは「がん微小環境を再現する人工組織の構築」と「人工組織を用いた抗がん剤の効果の評価」です。がん研究会は日本最古のがん研究所であり、国内で最もがん患者を受け入れている病院でもあります。臨床薬理に関する専門的知見やノウハウの提供をがん研が行い、3D細胞培養技術を用いて、患者の検体から人工組織を作製、薬効評価する部分は凸版印刷が行います。それぞれの専門性を掛け合わせることで、短期的に研究を推進できます。
また、3D細胞培養技術の共同開発に関わった大阪大学も、材料研究や方法論を担っています。がん研と凸版印刷の共同ラボ、そして大阪大学の協力も得て一緒に研究を進めることで、抗がん剤開発研究におけるビジネスエコシステムが自然と形成されています。それは、すなわちお互いがwin-winな状況であり、それまで共同研究で培った信頼関係があるからこそだと考えています。
研究成果を迅速に製品・サービスとして世に送り出し、新事業を創出することが凸版印刷の使命
――この研究を開始するにあたっては、社内の「フロントランナー制度」の存在が大きかったとのこと。この制度は研究員個人が新規テーマを会社に提案し、市場性・社会貢献性などの要素を満たしたテーマが採択され、これまでも、さまざまな開発が行われてきました。
北野さんはこの制度を活用し研究を開始しています。研究員自らが取り組みたいテーマを申請し、認められれば会社のバックアップを受けて研究を進められるこの制度、研究員の自主性が重んじられていることが分かります。
一緒にこの共同ラボで研究に携わる名田さんも語ります。
名田:ラボでは人工組織をいろんなバリエーションで作製し、薬効評価を行って臨床情報やマウスの実験結果と比較し、実現可能性を検証中です。私は人工組織の用途開発を担当しており、遺伝子の挙動や薬剤をテストして出てくる分泌物の挙動を追いかけたりして、評価の難しい免疫薬剤の評価系を構築しています。
がん研と一緒に研究を行い、臨床検体を用いているので、その検体に付随している薬効情報と比較しながら腫瘍モデルを最適化していけることは我々にとっても非常に重要で、貴重なことです。患者様から未来の治療のために組織を提供頂いているだけに結果と真摯に向き合い、確かな成果を出したいですね。
いずれはこの技術を使った製品や薬剤評価、創薬支援サービスといったものを世に出すのが目標ですが、希望をいうなら、私ならでは、という特色をどこかに付け加えられることができたらと思っています。
――がんは、今でこそ完治される患者さんも珍しくないほど研究が進みましたが、いまだに解明されていないことが多い難易度の高い疾患です。日進月歩のがん治療を支える研究を進めるうえでは、絶え間ない科学技術情報に関するキャッチアップが必要で、論文を読んだり、外部の専門家と話す機会も積極的に持っているというお二人。日々努力が続いています。
名田:私は医療の専門家ではないですし、それでなくてもがんは難しい疾患です。まわりの細胞との相互作用がありますし、臓器が変われば薬剤のリアクションも変わってしまいます。同じ薬剤でも皮膚がんには効くが、大腸がんでは全く効かない薬剤もあります。まだ医療やがんのことについて知らないことも多いので、毎日が勉強といえますね。
北野:この分野に限らず、研究には知識は必要ですし、インプットした知識がないと新しい発想も出てきません。論文は、世の中の最新技術情報を入手するツールです。自分たちで論文を読むことは当然ですが、外部の専門家と話し、どん欲に情報収集することもとても重要です。世の中の技術革新スピードが速いので、その世の中の動きに合わせて、個人としてもチームとしても学習曲線を描いていく必要があります。
北野:この3D細胞培養技術等の研究開発は凸版印刷にとっては歴史の浅い研究ですが、外部連携をすることで短期的に、着実に技術を社内蓄積できています。現在、新事業実現の為に、まずは、研究・事業の両面で仮説実証を推進しています。
また、凸版印刷のコアコンピタンスとの融合も重要と考えています。例えば材料技術、微細加工技術、コンバーティング技術、画像解析技術、遺伝子解析技術などといった凸版印刷がこれまでに培った技術とリンクさせ、既存と新規の両輪が動くことにより事業的な広がりを持たすことができたら理想的です。
様々な企業の技術を集結させた共同ラボでの研究の様子
<学生へのメッセージ>
――最後に、就活を控える学生の皆さんにメッセージをいただきました。
北野史朗さん
私は大学院では農学部で白色腐朽担子菌の研究をし、入社してからはライフサイエンス分野に携わり、DNAかずさ研究所にて大腸がんの遺伝子検出方法を開発しました。そしてその特許を関連会社の理研ジェネシスにライセンスし、体外診断薬として上市しました。また、遺伝子解析システム開発では、アメリカのシカゴ大との共同研究の為、約2年間、数ヵ月の常駐を繰り返しながら現地で大腸がんの検体を解析したことも良い経験になりました。
凸版印刷は、事業分野が多角的で、世の中の変化に柔軟に対応できそうな会社だなという印象があって希望しただけに、新しいことに関われている喜びを感じます。研究員は総勢数百名ほどおり、全員が私のように新市場を開拓するような研究に従事している訳ではありませんが、企業の研究所であっても外部の異分野の方々と付き合いながら活躍できる場がある、社員を育成する寛容さが凸版印刷にはあります。
名田イサナさん
私は大学では生命科学部で細菌などの微生物関連の研究をしていました。凸版印刷にはライフサイエンス研究というイメージはなかったのですが、合同企業説明会でこの分野のことを知り、興味を持ちました。入社時からこの3D細胞培養技術の開発に取り組んでいます。
研究は一人で成果を出すというものではなく、目標に向かってチームで動いています。医療については素人ですが、新しい知識を得られる研究に携われるのも、凸版印刷の幅の広さであり、魅力だと思います。
2019年で創立119年を迎える、世界最大規模の総合印刷会社。商業印刷、出版印刷、パッケージ、産業資材、証券・カードなど、あらゆる分野の印刷に加え、印刷技術を活用・発展させたフィルム包装材や、液晶カラーフィルタ、半導体部材などのエレクトロニクス分野など、幅広い事業活動を展開。近年では「健康・ライフサイエンス」分野など新たな成長領域における技術開発も積極的に推進。売上高は1兆円を超え、社会のあらゆる場面をトッパンの印刷テクノロジーが支えている。
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